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映画批評

「バベル」 映画の「内」と「外」について 2007.5.1


●陰毛
耳の不自由な菊池凛子がカフェで股を広げ、陰毛を男に見せる。


この瞬間、ある種の葛藤みたいなものが、我々を捉えはしないだろうか。
「この陰毛はひょっとすると、芸術ではないのだろうか、、、」、、、
笑、、

●緊張
アメリカと、モロッコとの間では、何やら緊張が漂っていて、病人をすぐには収容させてもらえない。メキシコとアメリカとの国境では移民たちの不法入国と人権がどうやら問題なっているらしい、、

「政治問題だ、、、ひょっとしてこの映画は、知的ではないのか、、、」、、、

●マスターベーション
子供が岩山でマスターベーションをする。

「子供のマスターベーション、、、この監督は、普通は見せないものを「敢えて」撮っている、、、「ひょっとすると」これは、この「裏には」何かメッセージがあるのかも知れない、、、、、、」。、、、。

●おもらし
病人のケイト・ブランシェットが「おもらし」をする。もうこの辺りになると私は、絶対におもらしすると予想していて、心の中で[よくやるよ、、]と、この監督に軽蔑の言葉を吐露するのだが、人々は

「大人が「おもらし」をしている、、、このシーンを、この監督さんは「敢えて」撮っている。これは「ひょっとすると」すごい監督さんではないのか、、、、」、、、、笑、、、

こうでも考えない限り、この芸術でもなんでもない凡作が「傑作」になど、なる訳がない。

この監督は決して「才人」でもなければ「偉人」でもない。上述のあらゆる行為はすべてが「芸術」ではない。

●内側について
例えばケイト・ブランシェットがおもらしをしたシーンの画面処理と光をもう一度想起してみよう。すべてが凡庸な照明による凡庸なクローズアップと近景で処理されてはいなかっただろうか。

ケイト・ブランシェットが「おもらしをした」のは映画の物語である。だが映画とは、「物語」を「可視化」するメディアである。その「可視化」の部分が「極めて凡庸」な映画が「芸術」なのだろうか。いったい批評家たちは、この凡庸極まりないショットを1300か1400くらい羅列しただけの映画の、何を大騒ぎしているのだろう。

この映画は、半分以上がクローズアップで、そして8割以上が近景で撮られている。それもそのクローズアップは、照明、光、背後、そして連鎖との関係において、極めて凡庸なクローズアップである。そしてこの監督は、ふた呼吸目には「クローズアップ」に逃げている。そしてその近景のままキャメラを微妙に揺らし、或いは思い切り振りまくり、或いはズームやジャンプカットによって、さらに画面を「動かして」いる。砂漠でメイドが彷徨うシーンの処理を見てみよう。フルショットのあとはすぐにクローズアップ。それもあらゆる地点から、アングルから、ただ撮りまくっている。つまり「視点」が見事に消去されている。賞賛すべきはピント送りを繰り返すキャメラマンの技術と労働くらいだが、それにしたところで「百年恋歌」や「ミレニアムマンボ」の、リー・ピンビンのピント送りの足元にも及ばない。

お分かりだろう。この映画の撮り方もまた、典型的に「画面を隠す」撮り方なのである。換言するならば、常に「画面を動かす」ことによって、我々をして画面に引き付ける。人間は、動くものを見ていると「退屈しない」ものなのであり、この映画は、まさに現代の凡才たちが多用するマニュアル通りの撮り方をしている。

こういった撮り方は、「視点」というもの、「構図」というものを回避しながら映画を撮れる「インスタント手法」であって、仮にこうした撮り方が「評価」されるならば、「才能を欠く者たち」にとって、まさに映画界は「楽園」と化すことだろう。

仮にこの映画に「視点」なるものが存在するとするならば、それは人を「退屈させないこと」以外の何物でもない。「はっとする」。我々はただショットの転換「そのものに」、キャメラの動き「そのものに」「はっとする」。だがそれは決して、ショットの「中身に」はっとするのではない。もう一度この映画のショットを良く見て頂きたい。

しっかりと照明を決めて撮っていたのは、菊池凛子のマンションの部屋くらいであって、そのシークエンスにしてもひたすら凡庸なクローズアップで折角の画面の持続を停滞させている。全般的に「黒」が出ておらず、コントラストも何もまったくお構いなしに撮りまくっている。

このような、凡庸極まりない画面を羅列しながら、障害者、ヌード、陰毛、おもらし、子供のマスターベーション、鳥の解体、国際問題、不法入国と人権問題、といった、さも、いかにも、と言った「通常は見ることの出来ないもの」などの「映画の外の社会問題」を意味あり気にぶつけてくる点は、結局のところ「ユナイテッド93」などの「社会派映画」とその本質において共通している。

この映画は極めて「いかがわしい」。


そもそもこれだけ画面が凡庸な映画に「メッセージ」も何もあったものではない。
それにも拘わらず、この監督さんは、いかにも、さも、という「メッセージ」を、凡庸な画面の中に、これでもか、と「悪質なまでに」入れ続けてくる。

この監督さんは「賞の取り方」を良く知っていると言うべきだろう。

どうやったらスノッブたち
(評価の尺度を持っていないのに持っているように振舞う怠惰な人々)が喜ぶかを良く心得ている(もちろん、私も何がしかのスノッブであることは言うまでもないが、少なくとも私は自分のスノッブ性について自覚している。だからこそ私は訓練せざるを得ないのだが、、、)

スノッブという人種は、こういう「下品なもの」を見た時に「ひょっとすると、これは芸術ではないのか、、、」と逆読みし、騒ぎ出す人たちを言うのである。
映画の「内側の尺度」を持ち得ないから、彼らは映画の「外側の尺度」でもって騒ぐしかない。だが、彼らが語る「外側」など、たかだか一般教養にそれぞれの専門知識を付加えたくらいのものに過ぎない。するとどういう現象が起きるか。おそらく映画は「外部において専門化」してしまうだろう。こうした外部傾向を推し進めてゆくと、例えば「戦争映画」の場合、その権威は「軍事評論家」と「戦争体験者」が握ることになり、我々は疎外される。

もちろん、映画は総合芸術なのだから、あらゆる分野において専門家となることは、決してマイナスではないだろう。だがそれは、それらの「外側」の教養を、そのまま映画に適用することを意味しない。それは私が先日の論文「心理的ほんとうらしさと映画史」で書いたように、映画を殺す結果になるからである。
「外側の教養」は、「映画というメディアにもう一度適用し直し、映画というメディアに適したようにして、使わなければならない。決して「外の教養」で「映画」を犯してはならないのである。映画は「外」が「内」の中でのあらゆる試行錯誤や衝突のなかで揉まれて発展してこそ、あらゆる映画ファンにとっての「自由なメディア」となりうるのである。

●さて
この映画の重要な主題である「陰毛」「マスターベーション」「おもらし」「おしっこ」その他もろもろの政治社会問題、それもまた良いだろう。別にこれ等がそれ故に「だめだ」と言うつもりは毛頭ない。問題は、これ等の「外側の」物語が、映画の「内側の」物語として美しく、或いは驚くべき画面によって、或いは画面の連鎖によって、光によって、描かれていたかどうかである。

そうして見た時に、この映画のあらゆる「陰毛」「マスターベーション」「おもらし」「おしっこ」その他もろもろの政治社会問題、の撮り方は、極めて淡白で軽薄である。そうなると、この「陰毛」「マスターベーション」「おもらし」「おしっこ」その他もろもろの政治社会問題は、ただの
「陰毛」「マスターベーション」「おもらし」「おしっこ」その他もろもろの政治社会問題、に過ぎないことが露呈してしまう。そこで初めてこの映画の「いかがわしさ」が露呈されるのである。「いかがわしさ」とは、映画の「外側」によって、映画の「内側」を覆い隠そうとする精神に他ならない。

●黒沢清

この映画は「社会問題」という外側の主題をさも露骨に並べ立てることで、映画の内側の才能を問われることから首尾良く逃避している。
まともな作家は、このような形で露骨に社会問題などというものにアプローチしない。必ず「内側」を映画の心で充実させながら、映画の物語構造そのものを断片的寓意として「外側」を問いかけてくる。いや、「問いかけてくる」というよりも、投げ出してくる。例えば黒沢清の「叫」だが、あの映画は一見「ただの幽霊映画」かも知れない。だが、その物語構造は明らかに「9.11以降」として視覚的に露呈している。ただ、多くの批評家は、映画のあらすじを「読む」ことしか知らないから、それを視覚的に感じられないだけのことである。だからこそ、そういった批評家諸氏によって、黒沢清の映画は「知性がない」と言われてしまう。「外側の問題」を、この「バベル」のように、誰が見てもそれと判るように描かないからだ。その点この「バベル」は、「障害者」「陰毛」「マスターベーション」「おもらし」「おしっこ」「移民」「テロ」、、と、私を含めたどんなバカが見ても一発で「社会問題としてのメッセージ」がそれとなく判るように出来ている。逆に言えば「社会問題」でしかない。だが批評家に言わせると、こんな映画が「知性」ある映画となるらしいのである。

別に黒沢清でなくても良い。山中貞雄、小津安二郎、鈴木清順、溝口健二、アルフレッド・ヒッチコック、ハワード・ホークス、D・W・グリフィス、ジャン・ルノワール、こうした巨匠たちはみな同じ運命を辿っている。「知性に欠ける」と。では「知性」とは何なのだろう。内側の無能さを、外側の巧みさで覆い隠すことが「知性」なのだろうか。


私はあらゆる所でこの問題について論じて来た。映画の価値を、映画の「外の問題だけで」決めることは、映画と言うメディアにとって、非常に危険であり、また悲劇でもあると。

だがどうしても人々は、映画の価値を、映画の「外の尺度」で決めてしまう傾向がある。
映画の批評は「内の尺度」で、つまり、その映画が映画的才能を有しているかいないかを評価するには、「内の尺度」をまずもって使うべきなのであり、そのためには終わりなき訓練が必要となるのである。

「そんなことをしないでも映画は判る、映画は自由なのだから、」などという堕落した批評家こそが映画をバカにし、ダメにしている。
そもそも内側を訓練せずとも判る程度の浅はかなものならば、映画など屑同然、見る必要もない。

●不条理
不条理である、、、世の中は実に不条理だ。

「バベル」は、ひょっとして、その「不条理」を描きたかったのではないだろうか。

だが皮肉にも、作品のメッセージではなく、作品の存在そのものが「不条理」になってしまっている。


このような作品を、神妙な顔をして論議し、賞を与える社会の構造そのものが「不条理」そのものなのである。いったい何処の誰がこのような作品に騒ぎ始めたのか。

もう一度繰り返したい。

この映画の画面は凡庸である。映画の「内側」が凡庸である。だがこの映画は世界的に話題になり、賞をもらい、おそらく某雑誌の「ベストテン」を飾ることになるだろう。そういった人々はこの映画を何故評価したのだろうか。

「陰毛」「マスターベーション」「おもらし」「おしっこ」、、、、、

笑い事ではない。どうやら社会の一部は、この「陰毛」と「マスターベーション」と「おもらし」の映画を、ただそれだけの理由によって評価したくて仕方がないらしいのだ。

●終わりに
見終わって帰宅し、85分で「怒りに震えて」書き上げた批評なので、いつも以上に乱暴になってしまったことをお詫びしたい。ただ、書き直すのも面倒なので、一発勝負で行かせて欲しい。
私の言いたいのは「バランス」であって、この映画を評価することそれ自体に対する批判ではない。この映画を評価するのも良いのだろう。だが、「外側だけで」評価する姿勢は、映画にとって好ましくない。従って私は、この映画の「内側」の素晴しさを挙げた上で、「外側」を「内側」と交えながら、評価する言論については、むしろ歓迎なのである。私が求めているのは評価の「固定」ではなく、その過程である。
「内側から掘り起こす」という困難な作業が、意識すらされていない大部分の映画批評の現状の中で、一度「内側」へと意識を向けたならば、人は放っておいても「内側」へとのめり込まざるを得なくなると私は期待している。映画批評の最大の問題は、私を含めたあらゆる映画ファンが、映画への「入り方」を見事に間違えている点に尽きるのである。

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